【私のニーチェ】ニーチェと株式投資


$ゆっきーのエッセイブログ

 ここで脱線的エッセイをやらねば気が済まないゆっきーなのである。

 ニーチェほど株式投資の本質を鋭く洞察した学者はいないと思う。いうまでもなく経済学者よりもである。例えばニーチェを手にする人は、『悦ばしき知識』に以下のような文言があることを知っている。

「「隣人」が私利私欲を離れた<態度>を褒め称えるのは、彼がそれによって利益を受けるからである。もしその隣人自身が「私利私欲を離れて」<考えた>とすれば、彼はそのような力の毀損や損傷を---それは確かに彼自身のためにはなるのだが---否定し、そのような傾向の発生に反対する。」

 ニーチェが言っているのはつまりこういうことだ。

 道徳家が道徳的な行為を褒め称えるのは、その道徳的な行為そのものが立派だと純粋に思っているためなどではなく、その人が道徳的に振る舞うことによって、自分の財産や生命が侵されたりしないことがある程度予想できるからである。

 隣人がすぐ隣りにいなくてもいい。テレビに写った隣人をなぜ我々は誉めそやすのか。もちろんその「種」の隣人が自分の周りにも増殖することを茶の間でテレビを見ている隣人も望むようになること、望んでいることを確認することを期待できるからである。

 その証拠に、政治的に自分とは相容れない行為をする「その人やその人が属する共同体にとって道徳的なことをした」向こう側の現地の偉人に対して我々はその道徳的な勇気ある行為をたたえたりすることは一切ない。向こう側の人を褒める場合には、中国人のノーベル賞活動家のように、褒めるときにはいつでも、あちら側に間違って囚われの身となっているこちら側の人間なのである。

 それどころか、道徳とは極めて相対的なものであり、自分がそれを非難しているのは自分がたまたまそっち側に属しておらず、こっち側にこれもたまたま所属しているからに他ならないのだという単純な出発点すら忘却したままなのだ。いやむしろ、ニーチェによればその起源の忘却装置そのものが道徳なのだから当たり前と言うべきなのかもしれない。

 だから、あらためて考えなくても良いようなとっても自明な私利私欲を離れた態度を褒め称えるのだけれど、今書いたように「ひょっとしてこの私利私欲を離れた態度とは極めて相対的なものなのではないか」などと、私利私欲の起源そのものを考えようとするような傾向には大反対をする。それは自分たちの共同体の絶対的な意味での根拠のなさを暴露する行為に他ならないからだ。

 ニーチェは但し書き的に「それは確かに彼自身のためにはなるのだが」と書いているが、そんなことを一瞬でも認めてしまったら危機はさらに増幅されるだけなので、当然誰もそんな風には思ってもみない。思ってはいけないのだ。生きて行く上で踏まなくてもいい地雷源を踏みたがるという、いくぶんか高尚で致命的に酔狂な趣味をもつことは哲学者に任せておけばいいのだ。

これを森鴎外の『青年』の時のように置き換えてみよう。

「「投資家仲間」が私利私欲を離れた<態度>を褒め称えるのは、彼がそれによって利益を受けるからである。」

 ここでいう私利私欲を離れた態度とは、とりあえず投機的な態度ではなくて、投資的な態度と言えるだろう。読書シリーズで最初に引用したものを再度掲載してみる。

個人投資家の皆さんはまず身近で親しみのある株式を買って長期保有しましょう」

「応援したい会社の株を持つことです。社長の考えに共感が持てたりするところ。株主総会に出てみるのもオススメです」

「目先の儲けではなくて配当とか株主優待に注目するのがいいですね。」

「株式は長期で持たないとダメです。毎日上がったり下がったりと一喜一憂せず、頬っておいて気がついたら上がっているというのがいいですね。チャートの動きを見て投資するなんてナンセンス」

 ここに期待されているのは、なんとニーチェが19世紀に書いた書物で言われていることそのままではないか。
 
 投資家が優良投資家的な行為を褒め称えるのは、その優良投資家な行為そのものが立派だと純粋に思っているためなどではなく、その人が優良投資家的に振る舞うことによって、自分の財産やポジション取りが侵されたりしないことがある程度予想できるからである。 

 先の引用の続きを置き換える作業を続けてみよう。

これを『青年』よろしく翻案する。

「もしその株式投資仲間が、「私利私欲を離れて」その投資活動そのものを<考えた>とすれば、彼はそのような力の毀損や損傷を---それは確かに彼自身のためにはなるのだが---否定し、そのような傾向の発生に反対する。」

 ここにある人が、「投資するということは本当に上記に挙げたような優良投資家の行為なのだろうか」と口にすると、その瞬間優良投資家は眉を顰めて「投資と投機は違うのだ」と内心焦りながら正論を口にし始めるのだ。

 株式投資家がすぐ隣りにいなくてもいい。テレビに写った隣人をなぜ我々は誉めそやすのか。もちろんその「種」の隣人が自分の周りにも増殖することを茶の間でテレビを見ている隣人も望むようになること、望んでいることを確認することを期待できるからである。

 同様に投機家がすぐ隣りにいなくてもいい。テレビに映った投機家の末路、投機的な行為を煽ったホリエモンの末路を確認すれば十分なのである。

 おっとっと、脱線が止まらなくなりそうなので、株式の話に戻るとするか・・・

 でもその前に一言だけ・・・

「---それは確かに彼自身のためにはなるのだが---」

後回しにするということは、このニーチェの警句の本当の恐ろしい意味の検討は後にとっておくというということだ。

儲かるようにもなるだろうし、いやそういうことではなくてもっと・・・
・・・あるいは、にもかかわらず・・・