【エッセイ】美人すぎる株式

 ここで寄り道をしようー。おー!(^0^)

 あたしの小説ブログの方で、佐藤由加理ちゃんという女子高生が出てきます。背が150センチそこそこしかなくて、とってもキュートなんですが、男性週刊誌(週刊現代とかを想定)にも登場します。

 なんで登場するかというと、男性にとって究極的に理想の風俗チェーン店の社長だからなのです。

イメクラに似た、トラクラ(トランスフォーメーションクラブ)という形態の風俗を経営しているのです。

 どういうシステムかといますと、テレクラ的に電話でのやり取りをしているときに、男性のありとあらゆる好みをデータベース化し、いざご対面という時までにそのイメージにできるだけぴったりの用紙の女の子と探しだして、リアクションなどの会話の癖などもすべてその男性向けに仕込んでおき、究極の理想的な女性をご紹介するというシステムです。
もし関心を持っていただけましたら2011年の性風俗あるいは性風俗の終焉 から始まるところなどぜひ御覧ください。

 このシステムの目指すところは、言ってみれば、ジョン・メイナード・ケインズの美人投票と正反対のものであります。

 ケインズ『雇用と利子および貨幣の一般理論』で「株式投資は、投票者が100枚の写真の中から最も美しいと思う6人の女性を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に商品が与えられるという美人投票に見たてることができよう」と述べました。
 
 ここで重要なのは、強調しました「平均的な好みに最も近かった者」というところであります。

 具体的に考えてみましょう。

 世の中この「美人」をキーワードにしたマーケティングにあふれています。

 美人女子高生がいきなりドラッガー読んじゃうありえない話とか、美人女子大生会計士が次々と会計の不正を指摘(『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』の著者)したり、少し前は、美人過ぎる市会議員という方が話題になりました。

 このあたりの事情に詳しいモリコウスケ氏はこの現象をして下記のようにまとめています。

「掲示板「2ちゃんねる」に「青森県の市会議員がいくら何でも美人すぎる件について」と題されたスレッドが立てられたのがきっかけで、この「美人すぎる」と話題になる女性が増えています。「美人すぎる海女」「美人すぎる社長」「美人すぎる公認会計士」「美人すぎるバイオリニスト」「美人すぎるプロゴルファー」「美人すぎる首相」「美人すぎる書道家」など。(中略)それこそが風俗的マーケティングのパワーなのです」

                    モリコウスケ『風俗的マーケティング』こう書房
$ゆっきーのエッセイブログ

 脱線は脱線でも風俗的マーケティングの話をするという脱線ではないので、話をケインズに戻します(この本は同じ著者のもっと理論的な『デリヘルの経済学』と共にとても面白いのでいつかまた読書感想文で取り上げたいと思います)。

 ケインズが、「平均的な好みに最も近かった者」に賞がが与えられると述べているところは、この「美人」を実際に皆さんがネット検索や新聞などで見たときにおこるあの(!)失望感と密接に関係しています。

 その美人すぎる美人を実際に写真で見たときに、その期待が大きかった分ということもあるのでしょうが、多分、人が言うように確かに平均をかなり上回る美人だと思いながらも、残余の1%〜数十%に非常に不満足を覚えるのではないでしょうか。

 よく言われることですが、映像メディアでの表現に比べて、小説を書いていて女性描写が有利なのは、読者の方の勝手な(そして崇高な)妄想に期待できるところで、その意味で逆に小説では残余の描写した以外の読者の妄想が(もちろん前提として書き手の文章表現が平均以上に成功していればですが)作品の質を100%にしてくれます。

 うまく書きさえすれば、そんなこと何も書いていないにもかかわらず、その女性のつけている下着の色まで読者は想像してくれる可能性もあるわけで、そこが書き手の狙いどころでもあったりします。

 一方美人投票に勝つためには、この手の妄想を一切排除しなければなりません。自分だけが分かる、究極の自分のフェチ的な部分もしっかり満たされている、平均水準をはるかに上回る女性というのが究極の美女だと思いますが、少しでも自分で「これは自分だけの好みかな」と思うところを排除していって、「平均的な美人」に投票しないと、みんなが選んだ美人にはならないからです。人の視線が予め織り込まれています。

 言い換えれば”つり”でもなんでもいいんですけどとにかく、「美人すぎる○○」とキャッチコピーに書いても大丈夫であるという「平均性」(推奨銘柄性)こそがもっとも重要で、それは当然自分だけの好みを排除したところに成立するからです。

 株式も同じで、人気銘柄とは、自分だけが評価できる点をその企業が強烈に持っていても意味が無いということになると思います。自分は例えばパソコンに非常に詳しくて、あるITベンチャーの持っている技術は腰を抜かすほどの技術であると見抜いていたとします。これが半年後にはみんながそう認める技術だったとしても、それはどうなるかわかりません。その技術を人が平均的に評価するかどうかは別の話だからです。

 似たような話は他にもいたるところにあると思います。

 今コレを書きながらモーツアルトのピアノ協奏曲を聴いているのですが、映画『アマデウス』の中でモーツアルトを死に追いやったサリエリモーツアルトの社会的な評価を貶める(株を下げる)ことに人生のすべてを費やしながらも「私だけが知ることのできるその美に酔いしれた」と独白します。
 しかし当時モーツアルトを評価する人は殆どおらず、唯一の例外のベンチャーキャピタリストはヴァンスヴィーテン伯爵でしたが、この人は自分の持っているお金をどんどんモーツアルトに投資し続けました。
 ところがいくら後世の私たちがモーツアルトを絶賛しようがサリエリが最も幅をきかした、彼の最晩年は人気が出なかったので、ファンドマネージャーとしてはすぐに首になったはずです。

 では当時最もファンドマネージャーがお金を突っ込まないといけなかったのはだれでしょう。

 それは今日モーツアルトを聴く人がおまけで聴いてみるという聞かれ方しかおそらくされていない、他ならぬアントニオ・サリエリだったのです。サリエリには実際お金が集まりましたし、サリエリのコンサートのチケットを持っている人は女性を誘いやすかったはずですし、興行主は大儲けしたはずです。

 サリエリは見事に平均的な「美」に合致していたわけです。

すべては売れるかどうか、いつ売れるかの出口を読むこと、人がどう投票するかの予測を成功させることにかかっています。たまたま合致することはあっても、社会的評価の現場では、企業の業績やモーツアルトの創りだした音楽の偉大さとは無関係の所が大事のようです



でも平均的な美人ってなんか言葉としてヘンですよね。

変だと思った方は小説の中ではありますが、佐藤由加理ちゃんという女子高生が展開しているトランスフォーメーションクラブ(トラクラ)を是非お楽しみください(^^)

 

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