指南役『幻の1940年計画―太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』アスペクト

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ダメ押し(ノ゚ο゚)ノ新幹線は実は1940年に計画されていた?!

うーむ。

 なんだかここまで来ると、1940年から歴史が止まってしまって戦後の高度経済成長期まで完全な空白だったようにも思えてきてしまう。


 その列車は車輪が直径2メートル30センチ。最高速度はゆうに150キロを超える予定だったというからすごーい。しかし驚くのはまだ早いのだ!

 その列車はどこを走る予定だったと思いますか?

 東京大阪?いっそ博多まで伸ばすか、それならまさに現在の新幹線と同じ、まさか最初からそこまでやろうとしないよね・・・

 やる!(  ̄っ ̄)

え?

著者が描いた超高速弾丸列車の旅の経路を引用しましょう。

「列車は、午前6時に東京駅を出発した後、東海道都山陽道を下り、午後3時に下関に到着。そこから関門トンネルをくぐり、小倉・博多を経由して、佐賀の呼子から再び海底トンネルへと潜り、(!←ゆっきー注)、壱岐対馬を経て朝鮮半島に上陸する。釜山から京城へと半島を北上し、満州国奉天を経由して、翌日の朝に北京に到着。ざっと24時間の鉄道の旅。これが、1940年に立案された「弾丸列車」の行程である」

     『幻の1940年計画―太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』p156-157

まいりました・・・

しかし西暦2000年代を生きる私たちは。この弾丸列車が幻であったことを知っています。このことを史実でも確認しておきましょう。

 1943年までに東京から下関までの実に27%の用地が確保され、それと同時にトンネル工事も平行して推し進められました。1941年には新丹那トンネルと、翌42年には京都の新東山トンネルの工事にも着工。

 そして絵空事っぽく思える対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネルの地質調査もしっかりと1941年に行われています。基本的に対馬までま従来工法で掘れるということがわかり一安心。そしてその先の対馬と釜山を結ぶ深海250メートルの海底が難物。そこで海底を掘るのをやめて、チューブ型のトンネルを海底に設置し、列車はその中を通るようにすることにした(これって実現してたらすごいですよね、水族館みたいに旅の車窓から深海くじらとか、巨大あんこうとか見えるわけですよね・・・すげーです)。

 しかし戦局の悪化で物資人員共に不足し、工事の延期はやむなし。

 東海道新幹線がわずか5年で完成したのは紛れもなくこの時のノウハウの蓄積があったから。難航しそうな用地買収などの露払いも昭和の日本人の先輩方がやってくれた。

 すごい時代でした。1930年代。

 しかし、これまで見てきたような、東京オリンピック、万博、テレビ放送、弾丸列車は残念ながらいずれも実現はしなかった。そして時代は一気に戦争色を強めていきます。

 できないのはしかたないしまあ当然だと思います。しかし後世の我々はこれらの事実を知ると、あまりにも1940年というたった一年が日本を変えてしまったことに驚きを禁じえません。ここからは戦後の私たちのイメージにあう、欲しがりません勝つまではの世界になっていくようですが、いったい1940年に何があったというのでしょうか。

 それほどまでに1040年体制とは日本を一変させるものだったのでしょうか・・・。

 その仔細は現在このブログ用に、ゆっきーちゃんが赤鉛筆片手に再読中の名著野口悠紀雄『1940年体制 さらば戦時経済』の記述を頼りながらみていきたいと思います。

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