小林英夫 米倉誠一郎 岡崎哲二 NHK取材班 『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』創元社
他人の空似じゃなかった!?
今回はその計画経済の系譜を駆け足でまず俯瞰してみます。
「世界恐慌が始まる前年の1928年、ソ連では世界初の計画経済である第一次五ヶ年計画が始まった。この計画でソ連は、農業国から工業国への急速な産業構造の転換を図った。モスクワの国内経済全般を監督する行政組織であるゴスプラン・国家計画委員会(戦前の企画院、戦後の経済企画庁のモデルになったとも言われている)のもと、資源や人・資金の配分が国家の統制下に置かれた」
『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』P32
ここで「戦前の企画院、戦後の経済企画庁のモデルになった」と言われていますが、日本の体制側では今日の我々からすると驚くほど柔軟に旧東側からいろいろなノウハウを学んでいるようです。当時は世界全体の行き詰まり感があり、そしてそれは取りも直さず資本主義の行き詰まりであると左翼陣営だけではなくとも感じている知識人は多く、近代日本の体制側エリートの嚆矢である官僚たちもその例外ではありませんでした。
当時満鉄調査課の職員で、石原莞爾らのすぐ近くでソビエト連邦の躍進を調査研究していた市川正義は以下のように言います。
「当時世界中でソ連だけが経済的に成功していた。ソ連に対抗するには、ソ連のやり方を真似するしかない。自由主義経済ではやっていけないと宮崎さん(石原莞爾が先生と呼ぶ満鉄きってのロシア通の職員:ゆっきー注)は判断し、石原さんも同感したのだと思う」
同書p34
天才軍人であり、反マルキシズムの立場を生涯抜いた石原莞爾その人が、ソビエト連邦から経済計画を学び、自分の新世界構想の経済的な支柱として、ソビエトを範とする計画経済を満鉄調査部に研究させていたことは、当時特別な秘密でも何でもなかったのである。
石原は関東軍の全面的バックアップでロシア通で実際にロシアの知でロシア革命を経験した宮崎正義に調査団を結成させ、計画経済の精髄を徹底的に吸収させたのだった。それは、1936年に膨大な「満州国産業開発五カ年計画」となって結実し、満鉄と関東軍はその計画に沿って(そして石原はその計画の中に自身の独自の世界歴史観を投影し)翌年からそれを実行したのである。
模範としたといっても内容はもちろんプロレタリアート革命の推進ではなく、資本主義の修正としてソ連、その他の統制経済を日本の実情に合わせて創り上げたものである。
ポイントは、国営・国策・私企業という3分類で産業界を再編したことで、それぞれ、国営は金融、電気、通信などの経済的ライフラインをさし、鉄、石炭、鉄道などは半官的経営事業として間接的な統制を行う国策企業とした。そして、民間の活力も削ぐことなく、それ以外の産業においては私企業をベースとするもので、これは、のちに日本の五カ年計画にとして導入を検討(満州の計画そのままを持ち込むには日本では旧勢力のしがらみなどが多すぎてそのままでは無理だった)される。
さらに重要なことは、こうした基幹部分を国がコントロールし、私企業の活力を生かしながら全体としていきもののように有機的に経済をダイナミックに活動させる手法は戦後の高度経済成長期まで日本の経済政策の基本となったことである。
なぜか。
その大きな理由の一つは、計画が策定された翌年、五年間で25億円という巨費を投じて実行に移されたこの計画を仕切ったのが、関東軍参謀長板垣征四郎に「産業問題は君に任せる」と文字通り経済部分での全権を任された当時まだ40歳くらいの岸信介であったことによる。
岸は大日本帝国の年間総予算が16億円の時代にこのプロジェクトを事実上任され、次々と五カ年計画を現実のものとしていき、「満州国はまたたく間に一大工業国に変貌していった。」同書63
この本はNHK特集のまとめ本なのだが、取材班が番組の取材時に拾えたエピソードとして以下のようなものがある。
「そうだよ。政治家としてはGNPなんて言ったって国民にはわかりゃしないから、お前の所得が倍になるんだと言われなけりゃ話にならない。政治家はそういう話し方をするんだよ」と岩崎照彦元中小企業庁長官が岸から言われた。そして、岸が作り始めた国民所得倍増計画が出来上がったのが池田勇人内閣の時で、池田勇人はなるほどいいものだとして、これを宣伝した。だから国民所得倍増計画は実は岸さんの発案だと言えると元長官は言った。
『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』P172をゆっきーがまとめ
以上が我が国の計画経済の地下水です。
「日本は世界で最も成功した社会主義の国である」こういわれて、戦後に生きる我々は、縁もゆかりもないのにそっくりだと言われた時のような居心地悪さを感じる。
「他人の空似ですよ〜」
そんな時我々はお得意の日本人スマイルで曖昧に笑ってみせる。
しかし他人の空似じゃなかったのだ。
社会主義の申し子ではなかったけれど、我々はどうやら社会主義の里子だったのである。
次回この計画をさらに見てみましょう!