滅尽争という無理心中
三島由紀夫の「戯曲の誘惑」という小文にこんな一節がある。
「学生時代、新関良三先生の本で、”滅尽争”(フェルニヒエル・カンプ)という言葉を知ったときに、この言葉は私を魅してやまなかった。破局(カタストローフ)という言葉と、この言葉の記憶は今日なお私の悲劇的理念の、何とも言えない奇妙な支柱になっている。というのは、私は積み木の瓦解が好きなのである。
均衡と同じくらいに破壊好きなのである。正確に言えば、ひたすら破滅に向かって統制された組織の均衡の理念が、私の劇の理念、ひろくは芸術の理念になった」
この芸術の理念は例えばこんなふうに結晶する。
「どうして私が滅びることができる。とうの昔に滅んでいる私が」『朱雀家の滅亡』
「私は決して夢なんぞみたことはありません」『薔薇と海賊』
「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」『彩の鼓』
これはいずれも三島戯曲の最後一行、つまりひたすら破滅に向かって統制された小説という絢爛たる美の組織のカタストロフの極点である。
「私は楽天的に、とにかく演技をやり了せば幕が閉まるものだと信じていた」『仮面の告白』
この一文は三島の全創作の出発点である。
1945年8月15日。
演技をやりおおせたはずの三島の、時代と共に天才少年として、そう、三島自身がそう希ったように、日本のラディゲとして夭折する夢は敗戦と共に無様な形で消散した。
故障して途中で落ちるのを停止した緞帳は役を終えた俳優たちを、舞台の上に滑稽な晒し者のように取り残したのだ。
信じていた舞台の幕はおりなかった。
であれば、その幕は自らの手で降ろさねばならない。
1970年11月25日。
天才三島にして、もういちど滅尽争の幕を下ろすには実に25年の歳月が必要であった。
その意味で、三島には他の作家のように円熟へと向かう晩年というものはない。45歳という芸術家としてはまだ若い年齢で自決したからではなく、三島にとっての戦後は起きるべくしてついに起きなかったハルマゲドンを虚構の中で生き直すという舞台に過ぎず、それはただただ、自分の芸術的理念と生のまったき合体というフィクションの亡霊に、つまり”二重の虚構”に過ぎなかっからである。
ここで、ウィキペディアからニヒリズムの定義をもう一つひいてみよう。一つ目は前回書いた平岡梓的な小市民的ニヒリズムである。ニーチェによれば、あるべきニヒリズムとは以下のようなものの方である。
「すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度」 ウィキペディアより
積極的に文学という仮象を生み出し、一瞬一瞬その虚構を虚構として生きること。
こう読むならば、一見するとまるで三島由紀夫のために用意されたような定義ではないだろうか。
これが平岡梓のそれと大違いなのは一目瞭然であるが、三島が見抜いた岸信介のニヒリズムはこれとどう違うのであろうか。
再度三島の言葉を引用する。
「官邸は明かりを消し、窓という窓は真っ暗である。その闇の奥のほうに、一国の宰相である岸信介氏がうずくまっているはずである。私はその真っ暗な中にいる、一人のやせた孤独な老人の姿を思った。(略)民衆の直感というのは恐ろしいもので、氏が”小さなニヒリスト”であるということは、その声、その喋り方、その風貌、その態度、あらゆるものからにじみ出て、それとわかってしまうのである」
この小さなニヒリストに一番近い人物は、政治家ではないがその心性としては『鏡子の家』の誠一郎である。
「深淵だの、地獄だの、悲劇だの、破局だのというやつは、青春特有のロマンチックな偏見」
この三島自らが記した誠一郎のセリフは、いうまでもなく三島美学の全否定である。
岸信介にとって、帝国主義によって世界が激動したその深淵は、世界大戦というその現実の地獄は、大日本帝國の瓦解と無数の民衆の悲劇は、決して滅尽争とともに消してしまいたいような自分のみすぼらしい生を有耶無耶にするようなアリバイではなく、官僚としてそれらすべての苦しみをあたかも他人ごとであるかのように切り離し、外科医が患者に感情移入することを自ら禁じ、手術室でオペを行うがごとくに、政策の一つとして対処していくことなのだ。
これが岸信介の真っ暗な首相官邸で背中を丸めて行う、外科医的ニヒリズムの実践ではないだろうか。
だとすると、三島のニヒリズムは一見するとニーチェの定義とそっくりであっても、その動機の部分にあるのは、自分の人生を大きな物語の中で正当化したかった、戦争という大舞台の中で散っていった天才少年という、戦中という劇空間における手前勝手な無理心中とみなすことができなくもない。
三島の戦後に対する呪詛は、この生き残ってしまった無理心中の片割れに対する、理不尽極まりない身勝手なもう一つの片割れの愚痴だといえる。
だとすれば、そのやり方には様々の毀誉褒貶があるにせよ、戦前、全中、戦後の日本を”生きていく伴侶”として選びぬいた岸信介に対して、その夫婦生活が他人からどのように言われようともある種の動かしがたい確かさをもって、無理心中の成れの果ての三島に突きつけられたことは想像に難くない。
岸信介の小さなニヒリストとしての老人の体躯、その怜悧と引換とも言える豪傑的な磊落さの完璧なまでの欠如は、時代という大きなニヒリズムから出発し、その能力をもって常にそれと能動的に寄り添うことが可能であった不世出のリアリストの持つ不気味な存在感となって亡霊としての戦後を生きざるを得なかった三島を直撃したのではなかろうか。
「私は決して夢なんぞみたことはありません」
岸信介と三島はこの言葉は共有できただろう。
ただし岸信介は深淵だの、地獄だの、悲劇だの、破局だのといった夢をみたことはなく、三島は伴侶と一緒に日本の将来の夢を観たことがなかったという意味においてである。
「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」
岸のニヒリズムは決してこのセリフを吐くことはなく、三島のニヒリズムはこのセリフの如き異様な、そして完璧な虚構世界の宗教的な美として結実したのである。
まだつづく(かもしれん・・・笑)