奥村宏『無責任資本主義』東洋経済新報社

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 直木賞作家は直木三十五の作品を読破しているのか?
経済学者はアダム・スミスを・・・

 会社形態というのはいろいろありますが、私みたいな素朴な素人は合名会社や合資会社よりも有限会社、一番偉いのが株式会社だと思ってしまう。

 これはもっとぶっちゃけ、私がどっかでクラブを経営しているとして、お客さんから頂いた名刺になんとか株式社長と刷ってあるのと、合名会社社長と刷ってあるの両方見て、どっちに重点的にサービスすべきかと迷ったら、申し訳ないけどソファを温める暇もない人気ナンバーワンの女の子には、株式会社のシャチョーさんの横にしばらくキゲン取れるまで座れと指示すると思うのですが、これはまあ、普通ですよね・・・。


 今日本では(多分世界の大部分でも表向きは)このように株式会社=立派、というなんとなくそういうイメージがありますが、素朴な疑問としてこんな意見は言われてみれば、なるほどと誰しもが思うのではないでしょうか。


「自然人(個人)の場合には他人から借金をしたり、あるいは他人に損害を与えた場合は無限責任を負うというのが近代法の原則である。もし借金を支払わなければ、家や財産を差し押さえられるし、さらに相続人まで責任が及ぶというのが普通である」

奥村宏『無責任資本主義』東洋経済新報社 P92

そうですよね・・・。

 男は背負った責任の重さで値打ちが出る!みたいなのは任侠映画だけじゃなくて、女心としてまあ、実感することが私なりにもあります。

 動かせるお金が株式会社の社長の場合、100億円で、合名会社の社長の場合1000万円だ、という意味においてクラブの経営者のあたしが株式会社を優遇するのはもちろんなのですが、これと会社の価値とは本来別物ではないか、そんな風にもこの奥村さんの文章を読むと思えてきます。

 背負った責任の重さはおろか、頭の中に責任概念すらないんじゃないか?という顔をしているバグだらけのソフトを開発するIT企業の社長と、日々資金繰りに追われながらも驚異的な歩留まりの、そして実は宇宙ロケットすらこの技術がないと作れないという目立たない部品を作っている下町工場の社長さん・・・負っている責任は仕事にもお金にも全然重みが違う・・・なんて小説も作れそうです。



 という素朴な疑問には、アダム・スミスの三連発がよく効きます!

 いずれも『諸国民の富』原典で奥村氏の引用からの孫引きです。

 

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1ジャブ


「株主の大部分は、会社の業務について何事かを素人はめったに主張しないものであって、自分たちの間に党派心でもはびこらぬ限りは、会社の業務の世話などは焼かず、取締役が適当に考えて行う(爆←ゆっきー)半年または一年ごとの配当を受け取り、それで満足しているのである」



2右ストレート

「(一方で)このような会社の取締役たちは、自分自身の貨幣というよりもむしろ他の人々の貨幣の管理者なのであるから、合名会社の社員がしばしば自分自身の貨幣を監視するのと同一の小心翼翼さで他の人々の貨幣を監視することを彼らに期待する訳にはいかない


3ノックアウト

「株式会社というものは、合名会社では提供できないほどの大資本を必要とするところの、顕著な効用を持つ若干の目的のためでもない限り、設立されてはならない



 だそうです・・・


 まあ、経済学の父も昔の人だからな・・・。


 だからといって直木賞作家が直木三十五を読まなくて当然だということにはならないでしょう・・・


 こういう意見も瞬間的に出てきそうです。

 「それに経営者のモラルというのは別にたくさん議論されていて・・・」

 そんな当たり前じゃなか!

 でもそれは株式会社擁護のための技術論としての修正テクニックだといえなくもない。こういうことを主張する人に限って、そのモラルというのがうまく機能しないのは、個人がモラルに欠けるからだ、という不機嫌でヒステリックな反応をすぐに返してくるものだ。

 そういうとき、そういう人がまるで自分の道徳心が否定されたように過剰に不機嫌になるのは、彼らがほんとうの意味では道徳的でない証拠だとしか思えないのですが(ニヤリ)。



 そうじゃなくて、アダム・スミス原理的に株式会社はヤバイんじゃないのか?と言っていると思います。


 少なくとも、株式会社を考える上で、神の見えざる手はもう一度きっちり考えるべきなのでは?

 

なぜならズバリ!
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アダム・スミスが言っているのは!

 責任の分業(=有限責任というフィクション)は
責任概念そのものを破壊する


 ということだからなのではないか?


 つづく・・・