奥村宏『無責任資本主義』東洋経済新報社

株式会社のメリットと意義の再確認、そしてさらに問題点のあぶり出し

 論拠をまだ明確にしないまま、雰囲気だけ不気味な株式持ち合いの法人資本主義を見てみました。

 そこで今回は、アダム・スミス級の大物で株式会社賛成論を展開するJ・S・ミルの引用から参ります。

J・S・ミル『経済学原理』岩波文庫版5 P220

「法律は、有限責任の株式会社の全てから、ひとりそれらの会社がそれを持って営業を行おうと称する資本額が、実際に払い込まれるか、あるいはそれにたいする保証が与えられることを要求しうるばかりでなく、また、会社の業務その時その時の状態をいつでも確かめることができ、またその人達が取り結ぶ約束にとっての唯一の保証である資本が今のなお減少させられることなし維持されているかどうかを調べることができるようにするために、種々の勘定が記帳され、かつ個々の個人もそれを調べるるようにしておき、必要があれば世間へ公表するようにすること、そしてそれらの勘定の真実性を適当な罰則によって守ることができるのである」



 なんと見事に今日の資本主義社会における会社が守るべき項目を列挙しています。
 
 現代株式会社設立運営において、もし悪い人が悪いことをしようとしたら・・・っていうのを根こそぎ想定しているように見えます。


 現代の個別の細かい法律の制度趣旨もほとんどがこのJ・S・ミルの文章を下敷きにしているとさえ思えるほどです。

 本書で奥村氏も述べるように(P96あたりから要約しつつ抜粋)、株式会社は資本主義が生んだ最大の発明品であり、もしこの制度がなければ今日のような大企業は存在せず、したがって、資本がたくさん必要な重化学工業を始めとする産業インフラの全て(といってよいはず)は国家によってしか整備されなかったと思います。

 それらを国家によって整備しようとしていた社会主義国が、二十世紀末に一斉に資本主義に鞍替えしたという事実は、大規模な資本を市場で運用する株式会社の優秀性を証明して余りあるといえるでしょう。

 だから、今日人造人間が気持ち悪いから自然人に戻そうというただそれだけの主張は議論になっておらず、科学文明は非人間的だから、一切の科学文明を破棄して太古の昔のように仲良く森の中でエコ生活しよう!と言っているのに等しいわけで、そらー、科学文明を切り開いてきた科学者はむかつくだろうし、それと同じように資本主義の王道を地道に整備してきたJ・S・ミルの子孫たちも怒るに決まってます。

 ですので、このかけがえのない株式会社の功績を確認した上で、さらに問題を提起しようとしている以下の奥村氏の論法には非常に説得力を感じるのであります。

「さて、ここでミルの定義に従って(さっきの見事な引用のことです←ゆ)、株式会社の資本金が充実しており、それを担保にして銀行が融資するとしよう。いま資本金一億円のA社が同じく資本金一億円のB社を子会社として設立する。そこで銀行はA社にはその資本金を担保にして一億円を融資し、別の銀行はまた同様にしてB社に一億円融資する。B者はさらにC社を、C社はD社を・・・、というふうに設立していき、そしてそれぞれが銀行から借入をしていけば「テコの原理」が働いて無限に資金を調達できる。しかしもしD社が倒産したら、C、B、A社はいずれも連鎖倒産する」

                      奥村宏『無責任資本主義』東洋経済新報社P99

 奥村氏が問題にするのはこのレバレッジが効いた状態が、それぞれA,B,C,Dときちんと責任において分節化されていて、それぞれの責任を最終的に明確に問える状態となっておらず、無責任の連鎖体制が人造人間の人造人間支配によって生じているという点です。

 2つ前の記事で私は責任の分業(=有限責任というフィクション)と書きました。

 分業体制を推し進めた資本市場において、人間の欲望はある一点において(理想的には)神の見えざる手が働いて均衡すると主張したアダム・スミス自身が、責任の分業に関しては厳しくその限界を指摘したことを今一度J・S・ミルさんの賛成論の後、ここで考えてみたいのです。

 

 不確かな未来を不確かでない形に商品化して、それを担保とする「テコの原理」=レバレッジは現代の金融システムの中でも使われています。

 しかしその中で、J・S・ミルが見事に定義した資本主義市場の健全なあり方は最後まで完遂されるのでしょうか。


 個々の人間が責任を取れる範囲で遂行しようと完璧に努力していたとしても、全体として大破綻が起きるということ、言い換えれば個々の責任の総和で全体の悲劇は防げるのかどうか、そこに合成の誤謬はないか、このあたりをもう少し追求してみたいと思います。


 つづく