ヴェニスの商人の法人論1

 堅い話が続きましたので、今回は閑話休題でひさびさの「おとめのエッセイ」でーす。


 古来哲学者を魅了してきた『ミリンダ王の問』。

 紀元前に世紀後半に北方インドを支配したギリシャ系の王メナンドロス(ミリンダ王)と仏教の高僧ナーガセーナが実際に交わしたとされる問答の記録を中心とする本ですね。

 今回これを法人をめぐる責任論、なかんずくフィクションとしての有限責任論を展開する補助線として書いてみたいと思います。

 なお引用はゆっきーが好きな哲学者廣松渉さんの著作の『哲学入門一歩前』講談社現代新書からの孫引きとなります(原テキストは『ミリンダ王の問い』中山元他訳 東洋文庫版)。

 廣松さんの文章も適宜引用します。


高僧ナーガセーナ

大王よ、私はナーガセーナとして知られております。・・・しかしながら王よ、この”ナーガセーナ”というのは、実は、名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。そこに人格的個体は認められないのです

ミリンダ王

尊者ナーガセーナよ。もし人格的な個体が認められないのであれば、・・・聖戒を護るのは誰ですか?・・・酒を呑むのは誰ですか?人格的個体が存在しないとすれば、善なく不幸なく、善・不善の行為をなすものなく、・・・行為の結果なる報いもないのです。尊者よ。もしあなたを殺すものがあっても、その者に殺生の罪はないことになりませんか?ナーガセーナと呼ばれるところのものは、いったい何ものなのですか?



 
 さっそくですが、ゆっきー翻訳してみましょう。えーい!(笑)

 大資産家よ、私は株式会社ゆっきー商事として知られております。しかしながら大資産家よ、この”ゆっきー商事”というのは、実は、名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。そこにフィクションとしての法人格的個体はありますが、自然人としての人格的個体は認められないのです。


 大会社ゆっきー商事よ、もし全人的な個体が認められないとすれば、・・・社会道徳を守るのは誰ですか?・・・もし自然人としての個体が完全に存在しないのであれば、いかに極悪非道な経済行為をなすとも、善なく不幸なく、善・不善の行為をなすものなく、・・・行為の結果なる報いもないのです。法人を殺人罪で問えないのは分かりますが、法人には生殺与奪の権利が明白にあります。大会社ゆっきー商事と呼ばれるところのものは、一体何ものなのですか?



廣松渉さんナレーション

王は、髪から初めて、皮膚、肉、骨、心臓、血、頭脳など(仏教で言う三十二身分)、これらのものがナーガセーナであるのか、ひとつひとつ問うていく。答えはもちろん否定的である。同様に、物質的な形、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用、これらのものがナーガセーナであるかと問うて、否定的な答えを王は受け取る



 大会社ゆっきー商事でいえば、従業員が会社なのか?会社の莫大な含み資産が会社なのか?取引先ののれん、営業権が会社なのか、特許などの知財が会社なのか一つ一つ、有価証券報告書や株式目論見書に記載されていることを問うていくわけですが、デューデリジェンスで企業側から普通それぞれの価値について具体的回答が得られることを、大会社ゆっきーなるしゃべっているヒトはかような答えをし、大資産家はそのたびに否定的な答えを得るというわけですね。

 わはははー(ーー)


 はてさて、この問答やいかに?

 ははは(^^)

 しばらく脱線が続きます。