【ライフハック本の特徴】2シリコンバレー精神親和性その12 記憶は記録の再現ではない

 
 ここでひとまず『記憶のゆくたて』が主題としていた記録と記憶のダイナミックな関係について確認したいと思います。

 例えば記憶と記録のダイナミックスでない関係とはどんなものだろうか。つまり記憶と記録の静的な関係とはなんだろう。それは、何年何月何日に何をしたという記録をそのまま(=静的に)呼び出すことだろう。

 このことをさらに動的、ダイナミックな関係との違いにおいて明確に記述している『ウェブ社会の思想』の文章を引用してみる。


 ウェブ社会の思想―“遍在する私”をどう生きるか (NHKブックス)/日本放送出版協会
特徴的なことは、自伝的記憶が、過去の出来事そのままのコピーではなく、時とともに再構成されるようなものであるということだ。たとえば、高校時代に「去年の夏休み」のことを思い出すとき、それは「いつどこで何をした」というものになるかもしれない。

 では大人になってからはどうか。多くの場合、印象深かったいくつかのエピソード(部活の合宿、花火大会、恋人とのデート)の繋ぎ合わせで「高校時代の夏休み」という記憶が思い起こされるのではないだろうか。こうした記憶の再構成は、その記憶に閲する意味付けもときとして変えることになる。高校時代はつらくて仕方かなかった勉強や部活の記憶か、後になって「あれはあれでいい思い出だ」と思い返される場合がそれにあたる。

 ここで確認しなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「覚えている」ということは、過去の行動の完全な履歴が保存されるのではなく、思い出されるたびに変化し、意味付けの変わる記憶を維持しているということであり、そこには「忘却」も同じくらい必要とされるものであるということだ。すなわちそれは、「記憶」と「記録」が、質としてまったく異なるものであることを意味している(以上引用)





 ここで高校に夏休みについて対比されているように、例えばフロイトユングとは違い、現代の認知心理学においては、記憶は呼び出される都度再構成されるものとされている。
 確かに記憶違いや、思い出の変容などはこの説が説得力を持つと言える。

 さらに続く文章を引用してみる。

 認知心理学者の高橘雅延によれば(*注)、私たちが「覚えている」と思っている過去の記憶も、実はかなりの程度あいまいさを残している部分があるという。高橋によると、私たちは一ヶ月前のことを、事実のとおりに思い出せると考えがちだが、実際には、時間をおくことで、50%前後の記憶が入れ特わってしまうというのだ。つまりそこで私たちは、「想起する記憶内容の一部を選択し、再構成している」のである。さらに言えば、何度も繰り返し思い出すことで、「虚偽の記憶」が現れる場合さえあると高橋は述べている。

 こうした知見に基づいて、心理学者は、「わたしはわたしのことを覚えている」という出来事が、文字どおり過去の出来事を脳内にストックするようなものではなく、思い出されることによって、それが新たに「記憶」として上書きされるような、「自己物語」の側面を持つと主張している。つまり、わたしがわたしであることの確信は、(「もうひとりの自分」のようなものを含む)他者への語りの中から生成してくるということだ。

*注釈
高橋雅延「記憶と自己」、太旧信夫・多鹿秀継編「記憶研究の最前線」北大路書房、2000年。




 なかなか興味深い考え方です。私たちの現在に関心事からいうと最後の「他者への語りの中から生成してくる」というところが最も重要になってきます。

 他者への語りの中から生成してくるとは、「記憶を失ったネット社会」において、「<個人情報「過」露出>に走らせたり、<個人情報「過」保護>に揺り戻したりするジレンマ」を回避し、他者とのコミュニケーションの中から「正しく「記憶」すること」を可能にしてくれるヒントになりそうです。




 というわけで、次回はこの「他者への語りの中から生成してくる」という点を掘り下げます。

つづく(〃⌒▽⌒)ゞ