【ライフハック本の特徴】2シリコンバレー精神親和性その13他者への語りの中から生成してくる自己?

おはようございます(〃⌒▽⌒)ゞ

 ウェブ社会の思想―“遍在する私”をどう生きるか (NHKブックス)/日本放送出版協会
(「他者への語りの中から生成してくる」)とすれば、そこで「記録」というメディアが、自己を形成するのに非常に正要な役割を果たすことは、容易に想像できるだろう。「高校時代の友人」が、どのような人だったのか、放っておけば私たちはすぐに忘れてしまう。しかし、日常にはあまり思い出されることのない相手であっても、卒業アルバムを見返したり、あるいはときにそれを別の友人に見せながら、「彼はこういう人でね」とか「ああ、こんな人もいたなあ、彼女はね……」と語ったりすることで、そのたびに「高校時代の自分」を構成することができる。そしてそれを通じて「あのときは意識しなかったけど、ほんとうはこの人のことが好きだったんだ」などといったように、記録をもとにした他者への語りを通じて、「いまの自分」に接続される、自己物語を生成するのである。

 若者の記憶と自己について研究している角川隆一は、女子同生の写真ブームや、素人による日常的なスナップ写真の投稿誌が、それを撮る者、語る者にとっての「思い出づくり」、すなわち記憶の再構成という機能を持っていたと論じている。角川によればそれは、投稿を通じて他者に提示された思い出であり、それについて語ることを通じて、そこに写されたものが「ほんとうは大切なもの」であることを確認する媒体であるという。ここには、記録というメディアと、自己によって物語られる記憶との間の、ダイナミックな関係を見て取ることができるだろう。


 とても明快に、「他者への語りの中から生成してくる」自己についてまとめられています。

 記録をもとにした他者への語りを通じて、「いまの自分」に接続される、自己物語を生成するというのは、下記にパラフレーズして理解することができます。


1記録をもとにしている=虚偽ではない(写真など証拠がある)

2他者への語りを通じて=独りよがりでない(解釈の妥当性を保証)

 例えば、クラスナンバーワンの人気だった女の子と付き合っていた思い出に浸りたい場合、まったくの妄想ではなく自分自身の確かな記憶、例えば1の証拠写真相当するその子と肩を組んだスナップ写真が要請される。
 さらに、これが単なる文化祭打ち上げの集合写真を撮った時のたまたま隣にいたその子とその場の雰囲気で肩を組んだ写真ではなく、付き合っていた証拠として2の他者に認めてもらう作業の必要がある。


 つまり自分の妄想の閉じた島宇宙を再生産するのではなく、開かれた世界に接続された他者の承認を経て「いまの自分」に接続される、他者を含んだ自己物語を生成するというプロセスが必要なのである。





 メカニズムはこれで非常にはっきりしました。

 毎日私たちがネットで見知らぬ他者に語りかけることを繰り返すのはこの流れに沿った作業であると言えそうです。



 ただこのプロセスにも問題がない訳ではありません。

 2の他者なんですが、実際には彼女じゃないのに肩を組んだ写真であるにもかかわらず、自分の都合のいいように「それはお前が彼女とデートした時の写真だよな」と偽の証言をしてしまう人を呼び寄せて偽証させてしまい、自分に都合の良い思い出を再生産していこうとしてしまったらどうでしょうか。

 自分の答えて欲しい答えを出してくれる人を私たちは無意識のうちに求めてしまう。そして「それは単なる文化祭打ち上げの集合写真だよ」と真実を指摘してくれる同級生を遠ざけてしまうということに陥りがちなのもまたあり得る話です。




 次回この困難について考えてみたいと思います。


 つづく(〃⌒▽⌒)ゞ