集合知礼賛の中心でstray sheepを探すメモ
前回の知の遠近法と集合知の関係考察のための読書メモの鷹師さんあてのコメントで「私は人の意見を尊重するという言葉が大嫌いです」と書いたことで昔書いたエントリーを思い出した。
一年半ほど前の別ブログでの記事なのですが、よく言えばひとつの問題を続けて考えており、悪く言えば成長していない自分を発見し(笑)フクザツな気分でもあります。
>>九十九匹が、九十九匹の群れではなく、九十九の表情を持つstray sheep
であること、私は集合知にこれを求めたい。多様な意見の集約ではなく、多様な意見が多様性そのままであり、なおかつ同時にそれを参照できる集合でもあること。
>>野に見出された世界の孤児
と、
>>その一匹を追う途方も無い覚悟
集合知の中心で
>>自分が実は絶対的な独り者、stray sheepに他ならぬことを気がつくこと
そして最後には愛を叫ぶこと。
一年半たって、自分は成長しただろうか?
これもメモとして再掲載しておこうかな・・・。
====引用====
「あなたがたのうちの誰かが、百匹の羊を持っていたとして、そのうちの一匹を見失ったなら、残りの九十九匹を野に残して、見失った一匹を見つけるまで探しまわらないだろうか。」
新約聖書 ルカ伝第十五章
聖書のこの一節は、博愛主義という精神の尊さを読むものに具体的に惹起せしめる。
群からはからずも離れてしまった一匹は常に私たちの周りにいるからだ。
人は言う。
最後の一人が他の九十九匹と同じく楽しさを共にしないならば、九十九匹の幸せなどにどんな意味があるのだろうか。
しかし、この言葉に触れた時に感じる、この言葉を自分と同じように読むものを聖書の背後に感じるあの淡い連帯感と幸福感は、すぐさま残りの九十九匹の不確かさによって損なわれてしまうだろう。
たまたまその日群から離れてしまったその羊は、<常に群から離れてしまう弱い羊>なのだろうか。
羊飼いは残された九十九匹を背後に残して、その一匹を探しに行くことが簡単にできるのだろうか。
今日はぐれなかった羊たちは、たまたま今日はぐれなかっただけであり、本来ふとしたきっかけで、簡単に群から離れてしまう無力な、<あの>一匹と同じ存在なのではないだろうか。去る者を追えるほど残ったものたちは勁い(強い)のだろうか?群れからはぐれる弱さ以上に弱い自分を自覚してなおそれから目を背けようとしてしまう態度が九十九匹の連帯を生むのではないのか?
九十九匹が、九十九匹の群れではなく、九十九の表情を持つstray sheepだとしたならば、羊飼いがたまたま今その迷える子羊になってしまった羊を探しに行くことは、なし崩し的に九十九匹の孤児を生み出す行為にほかならないのではないか。
一匹の存在のために、治者である羊飼いは九十九匹の存在を蔑ろにできるのだろうか。
福田恆存は聖書のこの一節を引いていう。
「ぼくは―――ぼく自身の性格は政治の酷薄さにたえられない。その酷薄さを是認するにもかかわらず―――いや、それを是認するがゆえにたえられないのである。」
福田恆存 「一匹と九十九匹と」
九十九匹を守る行為、その政治の不可避性を十分に認識しながらも、一匹の子羊の運命に冷淡ではいられない。この福田の言葉は、政治と文学のジレンマを誠によく表したものだと思う。
「九十九匹を救えても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいったいなにものであるか―――イエスはそう反問している。(中略)
もし文学も―――いや、文学にしてなおこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいったいなにによって救われようか。」
福田恆存 「一匹と九十九匹と」
しかしである。
私にはこの福田の文章の中にも一つの欺瞞が感じられる。
その一匹とは、そのかわいそうなstray sheepとは一体誰なのか。
迷えるその一匹の子羊に文学が必要だと誰が言ったのだろう。
あるいはその羊はそうであったのかもしれないのだけれど、群れを離れる前にその羊はわざわざそんなことは言わなかったはずだ。
野に見出された世界の孤児
私たちはそのstray sheepに自分自身の幻視してその怯えのために文学の必要を、弱者への配慮を想起するのではないだろうか。
一匹とは、文学とは単にその暗喩ではないだろうか。
無論このことはそうであったとしても恥ずべきことなどではないと思う。
ただ、一匹への共感というこの使い古された言葉が、自分自身の切実な防衛的心情からそのリアリティを獲得したものだということは忘れてはならないだろう。
なぜなら、私たちはその原罪をあまりにたやすく忘却してしまうがゆえに、群れを離れた羊が群れを離れざるを得なかったその精神の孤独に、あまりにも鈍感になってしまうからだ。
しかしそもそも何故彼はなぜその一匹がひっそりと群れから離れたことに気がついたのだ。
彼が特別に優秀な羊飼いであったからなのか?
そうでない理由は彼が一番良く知っている。
彼はただはぐれなかったStray Sheepに他ならないからだ。
群れをついにはぐれようとするそのかすかな気配は、彼が自分の中に封印した息遣いそのものだからだ。
群れを離れざるを得なかったその心根は究極的にはその一匹にしかわからない。
その一匹を追う途方も無い覚悟。
羊飼いにはその覚悟がほんとうにあるのだろうか。
その羊の群れを離れざるを得なかった狂気に自分の存在を投げ入れることができるのだろうか。
もし出来る範囲でしかそれをするつもりがないのならば、それは福田の嫌う政治的な行為と何のかわりがあるだろう。
それは単に自己の心のなかの福祉行政の予算配分行為に他ならない。
問題ははぐれた一匹を追うかどうかではないのだ。
はぐれた羊を目の前にしたときに、自分自身が羊飼いという特権的な地位をなげうって、二匹目のはぐれ羊になる覚悟があるかどうかということなのだ。
そしてそれは、駆け落ちした男女のように他を寄せ付けない二人だけの愛の砦になるかもしれない。
しかし、その砦の幻は、群れを離れざるを得なかった一人の羊を発見したときに、まさにその時初めて見出されたものなのだ。
そうだ。
再びその二人すらも離れ離れになることは、その始まりにおいてギリシャ悲劇のように暗示されている。
自分が実は絶対的な独り者、stray sheepに他ならぬことを気がつくこと
それが一匹を追うことそのものなのではないだろうか。
福祉課に配属された行政官が防衛省の職員よりも善人であると、我々は無条件に、そう思ってはいないだろうか。
それこそ欺瞞の嚆矢である。
ニーチェが洞察したキリスト教の欺瞞はそこにありはしないだろうか。
そして入信したわけでもないのに冒頭の聖書の一節に共感してしまう我々は、いつの間にか紛れもなく、いくぶんかのキリスト教徒なのである。
=======以上再掲=====