3クラウド、ライフログ親和性 その5集合知問題にゆっきーが終止符を打つ!(下)

 (上)の後、いくつかのメモで集合知考えてみました。私の拙い思考の断片にコメントいただきありがとうございます。今日はそれをまとめたいと思います。



 私は、集合知とは自分がまったく気がつかなかったような知見や、過去の自分はメモだけは残してみたけれどそのことの持つ意味連関にはまったく気がついていなかったなどの、現在の自己を成り立たせてもいなければ、そう信じられてもいなかったけれど、自分のものの考え方や世界認識が一変してしまうような可能性を持った知の考古学だと思います。

考古学的事実は、現在との聞に、掘り起こされるべき意味上のつながりをもたず、たとえ掘り起こされても、それは意味連関の欠けた単なるエピソード(個的事実)としてしか理解されない。いつか連関が設定され、考古学が解釈学に変わるかもしれないが、それをいま予想することはできないのだ。
           永井均『<魂>に対する態度』より


 予想できないがゆえに、それが意味連関を持った時には衝撃的な爆発力をもって、自分の持つ枠組みに刺激を与えてくれるもの=集合知

 しかし、この集合知がひとたび「みんなで考えれば、ひとりの天才を超えられる」となってしまうと、それは自分の意見の優劣を競い合う、一匹を、一人の意見を排除する多数決原理に転落する危うさを持ってしまう。

 例えば、ハイデガー『存在と時間』で記述したような他人志向の、「みんな」に合わせる自分を量産する原動力となり、「みんな」の規範にすら転落してしまう。

「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)/光文社
このように目立たず確認しがたいことのうちで、「みんな」はおのれの本来的な独裁権をふるう。われわれは、「みんな」が楽しむとおりに楽しみに興ずる。われわれが文学や芸術を読んだり見たり判断したりするのも、「みんな」が見たり判断したりするのも、「みんな」が見たり判断したりするとおりにする。だが、われわれが「群衆」から身を退くのも、「みんな」が身を退くとおりにするのであり、われわれは、「みんな」が憤激するものに「憤激」する。「みんな」は、いかなる特定の「みんな」でみなく、例え総計としてではないにせよ、すべての人々であるのだが、そうした「みんな」が、日常性の存在様式を指定するのである。
ハイデガー『存在と時間』(仲正昌樹『みんなのバカ』の面白訳より)


 これは、永井さんの言葉を借りればこんな事態だ。

近代とは、「あたかも目覚めているかのような、最も深い、特権的な眠り」の時代ではあるまいか。それは現在の自己を成り立たせている特殊な過去を、そのようなものとしては(つまり特殊的なものとしては)決して思い出させない。それは他である可能性を遮断して、自己の普遍性を信じ込むのである。
       『<魂>に対する態度』より



 集合知は、他者に対する価値の優位を意識した時にここでいう「自己の普遍性信じ込む」規範となってしまう。そしてあたかもそれが「ひとりの天才を超えられる」かのような、弱者が強者に対抗するような武器になってしまった時、「自分がまったく気がつかなかったような知見や、過去の自分はメモだけは残してみたけれどそのことの持つ意味連関にはまったく気がついていなかったなどの、現在の自己を成り立たせてもいなければ、そう信じられてもいなかったけれど、自分のものの考え方や世界認識が一変してしまうような可能性」完全に消滅してしまうだろう。




アマチュア棋士が何十人と束になっても羽生善治には勝てないでしょうし、普通の学生を何千人集めてノーベル賞レベルの研究をしろといっても無理です。
小津安二郎の映画が、映画ファンの知恵を集めて作られることもありませんし、Wikipediaのような方法で村上春樹の小説が紡がれることもありません。
『クラウドHACKS!』より


 私たちはしかし、自分だけのかけがえのない棋譜、研究、映画、小説などに関するログ(思い出、メモ、思考の断片)をポケットの中や本棚や心の片隅に持っている。それは、日常に疲れた時、何かに行き詰まった時、新しい考えがつかめそうな予感がする時などに、予想できない衝撃力で自分の持つ枠組みに考えてもみなかったような刺激を与えてくれる。

 そしてそれは、自分のポケットや本棚や心の片隅にとどまらない。自分のポケットや本棚や心の片隅にある宝物を集合知の場所に公開し共有した時、その人は同時に他者のポケットや本棚や心の片隅の無名の宝物、価値の暴力化と大衆化から免れた知の原石を発見する。

 その時の自分のメモ、他人のノウハウ、知恵などの刺激は、羽生善治ノーベル賞研究や小津安二郎村上春樹以上に、自分に決定的発見を与えてくれる何ものかである。




 卒業写真のあの人に叱ってもらう。その時の敗北はなんと甘美なことだろう。

 そしてその心地よい敗北感はすぐさま、「ユーレイカ!何でそれに気がつかなかったんだ!」という自分にとっての大発見をもたらすだろう。

 それこそが集合知に触れた時の感動そのものなのではないだろうか。

 ちきしょー俺様の価値観が敗北した!とかつまんないプライドがじゃまする場所にこの感覚はない。

 自己が解体するような衝撃力、そしてそんな自己の危機と裏腹のその心地よさがもたらす考古学的知見、これが集合知の持つ本来の力ではないだろうか。





(上)(下)おしまい(o^—^)ノ

予想以上に問題が大きく、終止符という完成度に至りませんでしたが、
将来の課題とします(てへ)。