W.オーウチ『セオリーZ〜日本に学び、日本を超える』CBS・ソニー出版など

$ゆっきーのエッセイブログ

経済学 VS 経営学 ?

経済学が動揺している間に、経営学の方では毀誉褒貶激しい「日本的経営論」が気を吐いていました。

 日本的経営はスバラシイ!

昔からよくあるように、こうした指摘は日本人からではなく外国人がし始めて広まっていったようです。


多くのアメリカ人は終身雇用の考え方に反対である。無駄な労働者を雇用し続ける結果になることを恐れるからだ。終身雇用からくるボトルネックや非能率ができはしないか。明らかに、日本人は何らかの方法でこの問題を解決しているのだ。さもなければあの偉大な経済的成功は到底達成出来なかったはずだ(中略)。会社は自分たちの今の頑張りを覚えていて後で必ず報いてくれると確信しているからこそ可能になるのだ。長い目で見れば後世と平等は必ず達成される。また、短期的な労働力は、需要のあるなしで人を雇い入れたり馘にすることなく、社内でまかなえるようにするため、職場転換(ジョブ・ローテーション)の慣習をとっていることがこれを助けている。日本の経営システムの他のすべての特徴と同様に、意思決定は<親密さ>を通じて形成された<信頼>と<行き届いた気くばり>に基づいて結び付けられた全体の中に深く根ざしている」

         W.オーウチ『セオリーZ〜日本に学び、日本を超える』CBS・ソニー出版p75-76



 これを(当時ベストセラーになったという理由で)ひとまず代表的な、日本的経営楽観説として、反対の悲観説も見てみましょう。

「そもそも、日本の大企業が曲がりなりにもこの原則(終身雇用制ゆっきー注)を守ってきた裏には、まず敗戦後の惨状の中で、企業がやむを得ずこの原則をとらざるを得なかったという事情があるのではないか。(中略)そしてこららの説明がいずれも的を得ているとすれば、終身雇用は何らかの変更を迫れれていると言わざるを得ない。現在では、すでに高度成長の時代は遠くさり、かわって厳しい経営環境が企業をとりまいている。それだけではない。資本体の要求も強まり、企業は収益性の追求を重視せざるを得なくなっているのである」

         西田耕三『日本的経営と人材』講談社現代新書 P95-96


 両者とも、意見が分かれるのはその将来にわたっての日本的経営の有効性についてであって、日本的経営が有効であったことには対立点はありません。この有効性そのものを疑う議論も当然膨大にあるわけですが、ここではそれは捨象して石油ショックの乗り越え問局面において、前回のブログで書いたようにコストプッシュインフレを日本的経営がその労使一体型の価値の共有により回避し得たという点で、日本的経営には見るべきものはあったという学説はとりあえず妥当であるとします。


 では、そういう議論のための単純化を施した上で(日本的経営はそもそも人を不幸にするとかの議論はここでは置いといて)、『経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか』での野口悠紀雄さんはこれに対して、どう応えるでしょうか。

 ずばりそういう論点部分がありますので、以下そこを切り出します。

下記の2点は石油ショックの説明として標準的なものであるが、これを再検討する

・石油という特定の資源の価格が、他の財・サービス価格に対して上昇してその結果コストプッシインフレを引き起こしたという現象であるが、本当にそうか?

・石油ショックに対する対応とその成功度において、国によってかなりの差が出たが、これに成功した日本やドイツなどはある種の社会主義的経済的要素が混在しており、そのために賃金引き上げの抑制が可能となり、原油価格上昇の影響を緩和することができた。これも再検討する

 著者ははっきり言っていますが、上記の二つの命題は誤りではないそうです。ただし、それが本質かどうかというと本質でないというスリリングな議論の運びになっています。

野口悠紀雄『経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか』第1章7節「石油ショックの本質は何だったか」p47-48あたりゆっきーまとめ

 つまり、石油ショックをコストプッシュインフレ回避(その立役者は日本的経営)で乗り越えたというのが通説だけど、その乗り越えはコストプッシュインフレの回避が本質じゃないんじゃないか、という根本的な指摘ですので、その前提が違うのなら日本的経営の優秀性、有効性をここで議論することそれ自体が本質からずれているんじゃないかという、驚天動地の問題提起!



 それではそこを次に追求します!

 つづく