ヴェニスの商人の法人論7

「へえ、これはまた外資系って発想ですね」

 堀木とユキコ、そして関西弁をしゃべる怪しいデーブ・スペクターシャイロック2.0の三人は、地下鉄銀座線虎ノ門駅の地上出口を抜けると、虎の門病院を左手に見つつ、たわいもない世間話をしながら徒歩で移動し、ホテルオークラの最上階のスイートルームにおさまった。

「うむ。日本では短期間集中して仕事をするからね、来日の時だけここのホテルのスイートルームが私のオフィスになるのです」

 堀木は部屋をきょろきょろ見回しながら勝手に冷蔵庫を開けようとしてユキコに睨まれたり、完全におのぼりさん状態であった。

「さてと、リラックスしていきましょう。堀木社長はパーティーの続きだと思ってその開けようとした冷蔵庫の中から好きなアルコールを出して飲んでください。棚にあるお酒も全部セルフでどうぞ。ええと、元カノのコンサルタントユキコサンはお飲み物は・・・」

 ユキコはだんだんシャイロック2.0の口ぶりにも慣れてきたので、ことさらモトカノを訂正することはなしにして話を合わせることにしていた。

「私はなにかソフトドリンクを」

「おやあ、それはそれは。じゃあ、わたしも最初はジンジャーエールで乾杯しましょう」

「ホラ!何やってんの堀木くん。お仕事の話し終わるまではお水で我慢しなさい!!!」

 堀木はユキコがまじで不機嫌になりかけているので、あわてて手にしていた缶ビールを冷蔵庫に戻した。



「あなたの会社の大事な話でしょうが。ベンチャーだか何だか知らないけどちゃんとしなさい!」

 ユキコはソファの隣に座った堀木のおしりをおもいっきりつねりあげた。

「はい!」

 シャイロック2.0はその様子を楽しそうに眺めているのであった。

「まず、先ほどのお話ですけど、親父の会社の特許を使うってどういうことですか?ぼくのインターネットビジネスに使い道ないと思いますけど。しいて言えば、ぼくのやりたいのは企業と企業の商談を成立させる支援サイトだから、特許を持っている地味だけど優秀な会社あります、みたいに親父の会社をクライアントにして月額5万円もらうとか、はあるかな」

 シャイロック2.0はビジネスの話になるとそれまでのへらへらした調子がすっと奥に引っ込んだ。

「堀木社長。あなたは非常な勘違いをされてます。そういった具体的で瑣末な実務的なことはあなたとあなたの会社の従業員がしっかりやればいいでしょう。私の仕事はあなたが調達したい5億円をスムーズに調達することそれだけですよ。」

「あ、はい。そうでしたね。すいません。でも、それでおやじの特許がいるのですか?」

「そう。はっきりいって君の会社にはまるで関係ない。しかし、私ならその特許を大々的に世界の知財市場に売り出すことができます。私が調査したところによるとその特許を餌にしたら5億などというカネはあっという間に集まります。君のソーシャルスマッシュという会社は、親父さんの会社の特許を管理している会社ということで、明日にでも法務局に行って定款を書き換えてもらいます。そしてその知財を管理している会社が副業としてインターネットビジネスも始めるというわけで、これも定款の付帯事項におまけとしてちょろっと書いておくことにします」

 堀木は自分の自慢のビジネスプランがおまけといわれて顔が真っ赤になった。

 横でユキコが心配そうな顔をして、堀木を眺める。

「おまけってどういうことでしょうか。ぼくは・・・」


「まあ、怒るのは無理も無いですな。しかし現実問題としてあなたの会社、あなたの信用、あなたのビジネスプランで5億円が集まると本気で思っているのですか?堀木社長?」

 シャイロック2.0はユダヤの金貸し本家本元シャイロックの子孫の面目躍如といった凄みのある表情で堀木に斬り込んできた。

「それは・・・」

 堀木は横にいるユキコの前で恥をかかされたこともあり、怒りと屈辱で拳を握りしめていた。

「そらごらんなさい。あなたもうすうす、いや明白に自分にそんな魅力はない、自分が単なる裸の王様どころかこれから王様ゲームにエントリーしようとしている、いわば張り子の王様にすぎないことをよく知っているはずだ」

 シャイロック2.0は立ち上がると三人分のブランデーを用意して首を振るユキコの前にも有無を言わさずそれを置いた。

「眠たいこと言っているガキに、おっとあなたのことですよ、私が5分間で資金調達の極意を教えてあげましょう。ただし、これは仲間にしか教えない。これを聞いたら完全にあなたも私の仲間だと私はみなすことにする。さあ、まずは仲間の印に軽く乾杯しましょう」

 堀木ととユキコはシャイロック2.0の催眠術にかかったように、動けなかった。

 やっと正気を取り戻しかけたユキコが、小さい声で「出ましょう」と堀木の袖を引いた。

 堀木ははっとしたようにユキコを一瞬見つめたが、すぐにシャイロック2.0に向き直ってこういったのだ。


「乾杯したらその秘訣を教えてくれるんですね。仲間として」

「そう、仲間として」

「ちょっと、堀木くん何言ってるの。帰るわよ」

ユキコは今度ははっきりと声に出して堀木の腕を掴んで立ち上がった。

「うるさい!」

 堀木は怖い表情をしてユキコの手を振り払った。


「教えてください。ぼく仲間になります」

「ほほう。見所があるね、君は」

「僕はどうしても今の現状から抜け出したいんです。今の自分は全部バイアウトしてまっさらの過去の何もない、あたらしい自分になりたいんだ!そのためだったらなんだってします!」

「ほほう。君は自分の人生と自分の過去をいわば私にM&Aで売却したいということだね。自分のあまり満足のいかない過去を、過去の記憶を、過去の思い出をすべて私にに売り払い、そのかわりに全く別の、あたらしい人生、新しい自分という存在、人格をも手に入れようというわけだ」

 シャイロック2.0は過去の思い出をというところで、いじわるくユキコと堀木を見比べた。

 もしかすると、シャイロック2.0は堀木がユキコに対して淡い恋心を抱いていたことをあの関西弁をしゃべった時にはとっくに見抜いていて、他ならぬそのユキコの前で、メフィストフェレスに魂を売却する自分自身の決意を語らせようとしたのかもしれない。

 ユキコはそう思ってそっとシャイロック2.0を見た。

 するとシャイロック2.0はその瞬間のユキコの心のなかを見透かしたように、紳士的ににこやかに大きく頷いたのだった。

 ユキコは恐ろしさでひざが震えそうになった。

「ねえ、堀木くん・・・」


「ユキコちゃん。気に入らないんならここでもう帰ってくれ。これは僕の問題なんだ」

「でも・・・」

「わっはっは。淡い恋心も黄金の前には無力だな。君はいいベンチャー企業を創り上げることができるかもしれないね」


 ユキコはみじめな気持ちでいっぱいになった。あきらかにこの話の展開はおかしい。そして自分は多分ダシに使われている。

 そのことに堀木は気がついてもくれない。


 変わってしまったんだね・・・堀木くん。

 ユキコは涙が浮かんでくるのを必死にこらえた。

「さよなら」

 そう言おうとして堀木の眼を再び見ると、堀木もまた涙をこらえていた。ごめん、これはどうしても必要なことなんだ。

 眼がそう言っていた。

 幼子のような、でも抜き差しならない何かがあった。少なくとも人を騙して自分だけお金持ちになろうとしている金の亡者の眼ではなかった。






「サヨナラ」

 ユキコが口にする前に堀木の口がそう動いた。

ユキコとの中学の思い出も何もかもまっさらにして、何かを必死につかもしているいる幼馴染のあの優しいの目がそこにあった。

中学の夏休み、夜逃げ同然で学校を去る時に、好きだったユキコにさよならを言うこともできずに、キセキのように再会してすぐにサヨナラを言わなければならない堀木の目はしかし、哀しく静かに堀木流ではあっても一人の男の目だった。





「私も乾杯させていだだきます」

 ユキコはグラスを手に取った。



 堀木は驚いてユキコを見つめた。

 シャイロック2.0は上べだけ驚いたふりをしながらも想定の範囲内のシナリオに満足して頷いた。

 そしてそんな二人を見てユキコはあらためて思った。




 堀木くんの眼は確かに私を必要としていた。

 だから・・・

 ううん。違うわ。

これできっと特ダネが取れる・・・。

 ユキコは自分の心に言い訳をしながら笑顔でグラスを差し出した。