知の遠近法と集合知の関係考察のための読書メモ

今回はまるごと引用メモ。

これを咀嚼するのだ…。


これがニーチェだ (講談社現代新書)/講談社
 パースペクティブは、従来「遠近法」と訳されることが多かったが、私はたんに「観点」とか「視点」の意味だと思う。
 ある生き物が置かれた生存条件が、その生き物にある世界の捉え方を強いるのであって、それ以外に世界そのものなどはない、という考え方、が「パースペクティヴ」という比喩に込められている。
「およそ『認識』という語が意味をもつ限り、世界は認識されうる。だが、世界は他の仕方でも解釈されうるのだ。
 世界はその背後にはいかなる意味も持たず、無数の意味を持つ(ニーチェ)。
 これに基づいて「人間だけではなく、すべての力の中心が、自分自身から出発して残りの全世界を構成する」( ニーチェ )とされる。

 しかし、でもまた、その主張それ自体はいかなるパースペクティヴからなされているのか、という問題が付きまとうことを忘れてはならない。
 この考え方によれば、理解するとか認識するといったことは、本質的に価値評価することであり、自分の固有のパースペクティヴから世界を秩序づけ、外界を自分の価値評価に合わせて裁断することである(価値評価と事実認識の区別があるにしても、それはこの広い意味ての価値評価側の内部での下位分類にすぎない) 。
各々のパースペクティヴは、それぞれ自分の生存条件からの世界解釈を世界に押しつけようとし、そのため他のパースペクティヴをおのれのパースペクティヴの内部におさめて位置づけ、評価しまた断罪することによって、より大きくなろうとしのぎを削りあう。
「根源的なものは、すべてを自分の内部に取り込もうとする意欲である」( ニーチェ) 。

 パースペクティヴの強さはその大ききであり、パースペクティヴ相互の闘争は、位置づけ合いの闘争である。
もちろんそれは、闘争ではなく協力関係として現れることもありうる。
相手がこちらの挑戦に応えて、こちらをどこまでも正々堂々と位置づけ続けてくれる限り、こちらは自分が何であるかを、自分自身の知らない自分自身を、相手のパースペクティヴによって教えられることができる。
相手が正々堂々と位置づけ合うことを忌避する弱者の場合、それはできない。

永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書

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