4堂々と形からはいる(ツール、スタイルを重視する) 14大宅壮一文庫分類思想とフーコー的視点

 大宅壮一文庫について、参照中のネタ本を引用してみます。

 出版関係者なら一度は利用するのが大宅壮一文庫だ。
 同文庫は、昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一氏が、個人使用のためにつくっていた雑誌記事のデータベースを一般に開放した図書館である。
 明治時代からの雑誌が、約一万種類、六六万冊所蔵されている。
現在でも雑誌のバックナンバーを入荷しているので、毎年二万冊増えていくそうだ。
同文庫では、雑誌記事を「人名索引」と「件名索引」で検索できるようになっている。

 この件名検索がとてもユニークなのである。
 大宅式分類は、図書館のような「知」の分類というよりも、ジャーナリスティックな観点から整えられているので、世俗的、人間的である。
『知の分類史』中公新書ラクレ

 確かにこの大宅壮一文庫の分類図は、学問的な体系というよりはむしろ一つ前で笑ったフーコーが好きな中国の昔の分類図に似てる。

 別の本から、中国の分類図(リンク)についての解説を引用してみよう。

 この事典が「お話にでてくるもの」と「数えきれぬもの」を並列するとき、そこに露呈するのは、さまざまな物はそれ自体で秩序をそなえているわけではなく、そこにそれを分類するまなざしが必要であること、そしてそのまなざしは、文化的な背景に応じて完全に異なったものでありうることであった。
中山元フーコー入門』ちくま新書

 知の体型は普遍的な範型があるのではなく、言葉とものの秩序は認識主体の遠近法によって様々に見えてくる。

 新しいまなざしが新しい物の秩序を開く。存在する物の秩序を認識するためには、物の認識に先だって一つの知の枠組みが必要である。フーコーはこれを、ギリシア語で「知」を意味するエピステーメーという用語で呼ぶ。この知の枠組みは哲学的な理論よりもはるかに強固であり、さまざまな学問の基盤にあって、学問そのものを可能にする条件であり、しかも学問自体には不透明な前提である。
 フーコーはこの概念によって、物が一つの秩序の中において物として認識されるためには、一つの視点に立ったまなざしが必要であり、そのまなざしは文化的、歴史的に規定されたものであることを明らかにしようとするのである。
中山元フーコー入門』ちくま新書


 まるで大宅壮一文庫の解説のようです。


 というわけでもっといろんな分類の枠組みについて、このフーコー的視点(文化的、歴史的に規定されたものである)からみてみたいと思います。


つづく(o^—^)ノ