野口悠紀雄『1940年体制 ―さらば戦時経済』東洋経済新報社
経営は国家にやらせろ!
今回は最後の方で少々ゆっきー史観を入れてみます。
前回、日本的企業活動を支える間接金融が資本家の論理を抑える形で機能し始めたことを整理しました。
今回は同じく間接金融の誕生を、官僚がそれをどう整備していったのかを切り口に下記の5つのポイントに沿って見ていこうと思います。
1940年体制の前は直接金融が主役であったと言っても、銀行団と一緒になった日本株式会社の護送船団方式というイメージに慣れた我々にはにわかに信じがたいところもあります。
本書にある数字によりますと、1912年から14年の事業債発行額は平均して年間2000万円で安定していました。それが1919年には1億円に乗り、1927年の金融恐慌で金利が低下した後、1928年の統計資料ではなんと12億円です。
たった15年間で直接金融の金額は60倍に膨れ上がりました。
割合ですが世界恐慌の後1931年には直接金融がなんと全体の87%を占めていました。
この動きを国家の統制の下に管するた、岸信介ら革新官僚は所有と経営の分離をその思想的バックボーンとしました。
所有と経営の分離は現代の会社形態の常識となっていますが、アメリカでバーリとミーンズが今日古典となっているテーゼを、著作として世に問うたのが1932年。読んでいたかどうかはこの本には触れられていませんでしたが、1940年に革新官僚がこの概念を明確に打ち出した時、まさに日本は所有と経営の分離がもっとも重要な課題となっていたわけです。アメリカとは全く異なる事情でです。
この時の所有と経営の分離の最大のポイントは、経営のプロを同じく産業界から探すということではなく、経営を国家に任せろということなのです。
これは「単に国家統制を強化しようというだけでなく、営業の自由や利潤原理の否定という原理的な問題を含んだものであった。とくに『資本と経営を分離し、企業目的を利潤から生産に転換すべきこと』が強調されていた」
『1940年体制 ―さらば戦時経済』p52
これには当たり前ですが財界が猛反発します。
このあたりも後世の我々がイメージする、巨大資本と政府官僚と軍部がぐるになって戦争を推し進めたという図式が、全体としてはそうであったと結論されるにせよ、やや乱暴すぎる見方であるということがわかります。
企業は資金の調達の9割弱を自分の信用力で(やろうと思えば国家の意向おかまいなしに)賄うことができ、当然その利潤の分配は資本の論理に基づいて資本家に有利なように実行できます。
戦時下の経済でこれをやられると、戦争遂行に必要な生産そのものの計画が全く不可能になります。
ですので、官僚と軍部が協力しあっていたというのは協力し合うべくして協力していたのですが、協力して対抗したのは外国の軍隊である前に、まず真っ先に国内の資本家であったというのがより詳しくこの時代を見た場合言えると思います。
こうした駆け引きの中、各種の産業統制会がじわじわと広がっていきそれら経済統制会や、イデオロギー的には右国粋主義的勢力から社会主義的勢力を含んだ大政翼賛会が整備されていきます。
戦争末期1943年には、革新官僚の牙城企画院と現在の経済産業省である商工省を統合して、強大な権限を持つ軍需省を作り、ここに官僚主導で行って来た大資本の統制は完成を見ることになります。ちなみに大臣は東条英機首相が兼任。次官はあの革新官僚のスーパーエリート岸信介です。
指定した軍需会社の社長の選任や解任まで政府が直接許認可権を持つようになりました。
そうです!
ズバリ!
社長の解任や選任を行う臨時株主総会招集と経営者選任に関する取締役会の議決を同じ事を国家がやるようになったわけです。
これは取りも直さず・・・
経営は国家にやらせろ!=日本版所有と経営の分離 の完成だったのです!!
資本家は今でいう種類株式のように、議決権が無効な財産を所有するようになったのです。
つづく
冒頭に書きましたように最後の結論は野口悠紀雄さんと関係ありません。文責ゆっきーであることをお断りしておきます。
戦後高度経済成長期終了までの我が国の官僚の、日本を復興させるのだ!という壮大な国士的気概は、私はこの時の経営者の気概であったのだと強く感じます。